梅子の休日

備忘録よ。

少年少女日本の歴史 2

和をもって、とうとしとなせ。

 

大和政権、四世紀頃の日本は奈良盆地で大王(おおきみ)を中心に豪族たちが政治を行っていた。

 

渡来人がやって来て技術が高まり、大王の墓、古墳が作られる。

 

527年、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井の対大和への反乱で敗北。

 

蘇我稲目(そがのいなめ)、仏教派物部尾興(もののべのおこし)、神道派。

 

574年、聖徳太子誕生。蘇我馬子(そがのうまこ)は大叔父。

 

蘇我氏物部氏敗れる。

 

聖徳太子のおば、敏達天皇(びだつてんのう)の后、炊屋姫(かしきやひめ)が聖徳太子が若いので、推古天皇として即位する。聖徳太子は摂政。

 

596年、蘇我馬子法興寺飛鳥寺)建設。

 

三宝を尊ぶよう、仏、経典、僧のこと。

 

600年、第一回遣隋使派遣。

 

603年、冠位十二階の制度。蘇我馬子に集中しがちな朝廷の権力を分散。12の官位の冠と服の色を決める。

 

604年、聖徳太子、役人の心得である憲法十七条を制定。

 

605年、聖徳太子法隆寺建設。

 

607年、第二回遣隋使派遣。日が昇る沈むで隋を怒らせる。

 

643年、蘇我蝦夷(そがのえみし)の息子、蘇我入鹿(そがのいるか)が聖徳太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)らを滅ぼす。

 

645年、大化の改新中臣鎌足(なかとみのかまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)がタッグを組んで蘇我氏を滅ぼす。新しく孝徳天皇を立て、新しい政治が始まる。

 

中大兄皇子が実権を握る。

 

662年、白村江(はくすきのえ)の戦い。中大兄皇子と弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)、唐と新羅にやられている百済から援軍を求められるが、敗北。

 

668年、中大兄皇子天智天皇として即位。新しい法律の近江令を制定。内容は不明。

 

次の帝は自分じゃないのに不服な大海人皇子

 

669年、中臣鎌足、一番高い位を授かり、藤原姓ももらって亡くなる。

 

天智天皇の子、大友皇子(おおとものおうじ)が太政大臣(だいじょうだいじん)になったため、ガッカリした大海人皇子は都を去る。

 

672年、壬申の乱大友皇子大海人皇子を討とうとするも敗北し、自害。

 

673年、大海人皇子天武天皇として即位。

 

天武天皇稗田阿礼(ひえだのあれ)たちに日本の歴史をまとめた書を作るように命令。後の日本書紀古事記

 

683年、天武天皇、銅銭を使うように命ずる。富本銭(ふほんせん)が日本最初の貨幣。

 

天武天皇の子は草壁皇子(くさかべのおうじ)と大津皇子(おおつのおうじ)と高市皇子(たけちのおうじ)。天智天皇の子は川島皇子(かわしまのおうじ)。

 

草壁皇子天武天皇の后の鵜野皇女(うののひめみこ)との間の子。

 

川島皇子大津皇子草壁皇子謀反の疑いで討伐。

 

草壁皇子、3年後に急死し、孫の軽皇子(かるのおうじ)に代わって、鵜野皇女が持統天皇として即位。

 

697年、持統天皇は孫に譲位し、軽皇子文武天皇(もんむてんのう)として即位。

 

中臣鎌足の息子、藤原不比等(ふじわらのふひと)も上皇に気に入られて大出世。

 

701年、大宝律令、刑罰や政治の法律が制定。

 

柿本人麻呂持統天皇に仕えた宮廷歌人