和をもって、とうとしとなせ。
大和政権、四世紀頃の日本は奈良盆地で大王(おおきみ)を中心に豪族たちが政治を行っていた。
渡来人がやって来て技術が高まり、大王の墓、古墳が作られる。
527年、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井の対大和への反乱で敗北。
蘇我稲目(そがのいなめ)、仏教派物部尾興(もののべのおこし)、神道派。
聖徳太子のおば、敏達天皇(びだつてんのう)の后、炊屋姫(かしきやひめ)が聖徳太子が若いので、推古天皇として即位する。聖徳太子は摂政。
三宝を尊ぶよう、仏、経典、僧のこと。
600年、第一回遣隋使派遣。
603年、冠位十二階の制度。蘇我馬子に集中しがちな朝廷の権力を分散。12の官位の冠と服の色を決める。
607年、第二回遣隋使派遣。日が昇る沈むで隋を怒らせる。
643年、蘇我蝦夷(そがのえみし)の息子、蘇我入鹿(そがのいるか)が聖徳太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)らを滅ぼす。
645年、大化の改新、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)がタッグを組んで蘇我氏を滅ぼす。新しく孝徳天皇を立て、新しい政治が始まる。
中大兄皇子が実権を握る。
662年、白村江(はくすきのえ)の戦い。中大兄皇子と弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)、唐と新羅にやられている百済から援軍を求められるが、敗北。
668年、中大兄皇子が天智天皇として即位。新しい法律の近江令を制定。内容は不明。
次の帝は自分じゃないのに不服な大海人皇子。
669年、中臣鎌足、一番高い位を授かり、藤原姓ももらって亡くなる。
天智天皇の子、大友皇子(おおとものおうじ)が太政大臣(だいじょうだいじん)になったため、ガッカリした大海人皇子は都を去る。
672年、壬申の乱、大友皇子が大海人皇子を討とうとするも敗北し、自害。
天武天皇、稗田阿礼(ひえだのあれ)たちに日本の歴史をまとめた書を作るように命令。後の日本書紀と古事記。
683年、天武天皇、銅銭を使うように命ずる。富本銭(ふほんせん)が日本最初の貨幣。
天武天皇の子は草壁皇子(くさかべのおうじ)と大津皇子(おおつのおうじ)と高市皇子(たけちのおうじ)。天智天皇の子は川島皇子(かわしまのおうじ)。
草壁皇子は天武天皇の后の鵜野皇女(うののひめみこ)との間の子。
草壁皇子、3年後に急死し、孫の軽皇子(かるのおうじ)に代わって、鵜野皇女が持統天皇として即位。
697年、持統天皇は孫に譲位し、軽皇子が文武天皇(もんむてんのう)として即位。
中臣鎌足の息子、藤原不比等(ふじわらのふひと)も上皇に気に入られて大出世。
701年、大宝律令、刑罰や政治の法律が制定。