東風吹かば匂ひおこせよ梅の花、主なしとて春を忘るな。
781年、山部(やまべ)親王が即位し桓武天皇に新しい都、長岡京をつくる。
打倒藤原の大伴一族が謀反。加担したと思われた桓武天皇の弟、早良(さわら)親王が疑われて流罪、その後死去。
やり手桓武天皇の長岡京づくりもうまくいかず、近辺で不穏な死も続くことから早良親王のたたりでは、と恐れ、都を今の京都に移し、794年、平安京とする。
征夷大将軍、坂上田村麻呂、奥州を制圧。でも東北が安定するのは平安時代末期。
最澄、延暦寺を建てる。法華経を極めたくて遣唐使として渡航。菅原清公(すがわらのきよきみ)、(道真の祖父)も同船。唐の天台山で学んだので、帰国後、天台宗を開く。
同じく、遣唐使として渡航した空海は密教秘法伝授の師である阿闍梨に。高野山にて真言宗を広める。
桓武天皇、戸籍を作り、班田を行って財政を立て直し、民の労役を軽くし、役人の不正を更生、貧しい民には兵役免除、最澄の天台宗を公認、最大の功績は平安京。
桓武天皇の後の平城(へいぜい)天皇は3年即位した後に、弟(嵯峨天皇)に譲位したものの藤原薬子(くすこ)と兄の藤原仲成(なかなり)にそそのかされて、天皇の位を奪還しようとするも失敗、810年薬子の変。
藤原良房(よしふさ)、娘が嫁いだ道康(みちやす)親王を皇太子にしたい。恒貞皇太子付近が謀反を起こしていると成敗しまくって、842年承和の変。
道康親王、文徳天皇に。藤原良房、最高位の太政大臣に就任。文徳天皇死後、孫の惟仁(これひと)親王が清和天皇に即位。
大納言、伴善男、大伴継人(つぐひと)の孫。大伴氏は、淳和(じゅんな)天皇の名前が大伴親王だったため、伴氏に改名。
894年、応天門の変。応天門にて火災。源信(みなもとのまこと)が疑われるも無実。打倒源の伴善男が主防犯として捕まるが真実は謎のまま。
藤原良房、人臣で初の摂政に。その後は息子の基経(もとつね)が摂政に。
菅原道真、18歳で文章生(もんじょうせい)になり、26歳で最高の国家試験に合格し、役人に。32歳で文章博士(もんじょうはかせ)に。
菅原道真、藤原基経と宇多(うだ)天皇の不和をとりなす。意義が薄くなっていた遣唐使を廃止する。
醍醐天皇の時世、菅原道真は右大臣、藤原基経の息子、藤原時平が左大臣に。
菅原道真、醍醐天皇への謀反と濡れ衣を着せられて太宰府へ一人更迭される。死後、追いやった関係者一同が死亡、疫病や日照りが続き、とどめに内裏に落雷。道真のたたりと言われている。
ちょうど応天の門の時代。